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終わりよければ全てよし

ちょっとだけ文章を書くのが好きなオタクのポエム張です。

私は三つ葉の白詰草

だからね、人間は幸せになるために生きなきゃいけないのか、っていう話ですよ。

傷ついた分だけ人に優しくできるとか、痛みを知っているからこそ強くなれるとか、そんな弱者に夢を見すぎな感動ポルノには正直辟易していて、でもだからって強者がいじわるだとかそこまで現実から目を逸らしてもいない。

どちらかというと、弱者のことも強者のことも特別視するいわゆるふつう、の観点の方が正直反吐が出る。反吐が出る、っていうのはもうこれは単純に弱者としての「ふつう」への恨み辛み妬みだから、これをどうこうしてほしいってわけじゃなくてただただ憎たらしいだけなんだけどさ。




そりゃあ弱者も強者もふつうではない。だからって特別かって言ったらそれも違う。ただただそうなるまでの過程と、それ以前のその人自身の人格があってその状況に陥るんだ。突き詰めてしまえば運が悪くて、運を選ぶことができるかできないか、そういうことだ。身も蓋もない話にすると。
それは一般的ではないけど、それで何か特別という価値がつくかって言ったらそんなことはない。どこにでもあるようなありふれた話だと思う。

頑張った人は報われるべきだし、人から好かれることは嬉しい、そんなのは人として当たり前に願うことだ。だからって頑張った人が報われるわけがないし、みんなから好かれたりするなんて百人友達作ろうが通用するのは幼稚園までだ。

そりゃあね、そりゃ特別視しなきゃ、憐憫の感情でもなきゃ誰も困ってる人を助けたりしない。それはわかる。仕方ない。
自分が知らない世界を押しつけられた時、これは自分とは違うものだと切り離さなければ心の健全さを保っていられないのも知っている。
でも今まで自分なりに、自分の人生を自分のものとして必死に生きてきたそれを、培ってきた大切なものを一言に「可哀相」だと言われることの屈辱。
苦しかった、辛かった、全然幸せなんかではなかった。だからって不幸だとは思わないんだ。死にたくても自暴自棄になっても、それでもどんな理由であれこの命を捨てなかったことを馬鹿にされたくないんだ。

その無意識の見下しがどれだけ相手を傷つけるか、私は知っている。私はそうして意識的に人を傷つけたことがあるから。同情が、どれだけその人の尊厳を傷つけ苦しめ、相手を下に押し込める効果があるのか、私は苦渋を飲むほどよく知っている。

私は可哀相なんかじゃない。必死に戦ってきた。それが間違いだったとしても最初から意味なんてなかったとしても、今こうして報われずに空っぽになっているとしても、私はいつだって自分の意志で自分自身で戦ってきたんだ。
理解されなくていい。それは仕方ない。私が何をされてどんなに傷ついたかわかるのは世界で唯一、私が大切だった人たちだけだ。それは私と彼らの間にある唯一のものなのだ。絆なんかではないとしても。なかったことにはならない。苦しみも、そこにあった思いも。

「ふつう」に生きられるならそれに越したことなんてない。
「ふつう」に生きてたとしても人に優しくできる素養を持つ人は当たり前に人に優しくできるし、想像力豊かな人は他人を当たり前に思いやれる。心に余裕がある。

私が妬ましくて恨めしくて憎たらしくてたまらないのは、自分の「ふつう」の価値を知らない人だ。本当はわかっているくせに。
自分の「ふつう」の価値を、「ふつう」でない人に見せびらかして自慢する人だ。頼んでもないのに「可哀相」だとマウンティングを仕掛けてくる人だ。知らねえよ。おまえの人生にそこまで興味はないよ。だって「ふつう」だし。

私の人生は価値なんてなかった、幸せではなかった、大した意味もなかった。今死んでも悲しむ人はそんなにいないし、悲しむ人も二年もすれば忘れる。
でもそれが私の人生だ。今まで生きてきて、これから歩んでいくであろう人生だ。
意味もない、価値もない、幸せではない、そうして生きることの何がいけないのか?

私がこの先ぼろぼろになって汚く一人で死んだとしても、私の好きな人がそれなりに幸せに笑って満足して生きていてくれたらそれでいい。世の中には、幸せになるために生まれてきてくれた人とその幸せの肥やしになるために死んでいく人がいる。私は後者がいい。
ホラー映画で死の恐怖を演出するためにあっけなく無惨に殺されるモブでいい。主人公に脱出の鍵を手渡して目の前で死ぬわき役なら上々だ。

私が何をされたかどんなに苦しかったか唯一知っているのは私が大切にしていた人たちだけであるように、私が愛した人が私がそうした人生であったことを心の片隅に置いていてくれれば、心に残らずともせめて事実としてその生の中に残せるものがあれば、それでいい。
残った余力を、自分のわがままのために生きられればそれで充分だ。

なのに、見知らぬ他人からの誹りがこんなに苛立ってしまうのはまだ私がプライドを捨て切れてないからなのか、それとも友人だと信じる人にすら同情として昇華されてしまうことへのやるせなさか。

この悔しさは捨てるべきなのか持ち続けるべきなのか、まだ図りかねている。