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終わりよければ全てよし

ちょっとだけ文章を書くのが好きなオタクのポエム張です。

破壊的創造の翼

結局のところ、そう最後には、人は死ぬことでしか生まれ変われないのだ。

誰かから与えられた傷は、その与えた当人にしか癒すことはできない。というのがわたしの持論である。傷つけられ、自ら損ねたプライドは自身の努力で取り戻すことはできる。しかし与えられた傷そのものは、自分だけでは治すことはできない。だから人は、その痛みを思い出さなくて済むよう、同じようなことが起こった時に傷つかなくて済むよう、努力し続けるのだと。

けれど人間には忘却という機能が備わっている。忘れる、ということはその時の自我が死ぬということだ。連続性の喪失は、一貫した自分という意識がそこで途絶えるということだ。世界五分前創造説とはいえ、それでもそこに生きる人間の意識の中には生まれてから今日までの記憶と思われる情報があるからそれは成り立つわけであって、世界ではなく一個人視点で見れば世界が五分前から始まっていようが、コンピューターシミュレーションの世界の情報でしかないにせよ、なんの関係もないことだ。わたしの世界はわたしを中心に回っている、それでだいじょうぶ、オールグリーンおーるおっけー、なんの問題もない。




まあとはいえ、世界の真実は真実であり、一個人の意識関係なく起こったことは起こっているので、完全に忘却する、というのはなかなか不可能だ。定期的に忘れてクリーンナップしてしまえばそれは半永久的だが、そこまで自分の脳味噌を都合良く扱える人もなかなかいないだろう。

けれど忘れられないとしても、忘れられないほどの大きな傷だとしても、人間の自意識は自分を発端としている以上、意識的に自分を殺すことはできるわけだ。その亜種が二重人格やらどうたらなのかなとも思うが、そっちの方はあまり詳しくないのでわからない。
だが・人間の自意識は自分自身を発端としている。
  ・記憶の連続性の喪失は、一貫した「自分というだれか」を分断する   もの。
と考えれば、意識の喪失や記憶の喪失をきっかけとして、出自の違う他人が一人の人間の体の中に存在するというのはありえないことではないと思う。
二重人格はその無意識的な意識・記憶の分断によって起こっているのかなーと思うが、ここでわたしが考えたいのは意識的な、忘却を必要としない人間の死だ。

鬱は破壊的創造だとはよく言ったもので、そもそも頑張りやさんという名の周りの迷惑を考えない奴がなるような病気なのだから、それまでの意識や考え方、生活習慣をいちから変えなければならない。今までの生き方が原因でそうなったのだから、そこを正さなければ、いくら休養をとったところで元の木阿弥だし、そもそもそんな自罰的な意識で生きてる限り碌に休養なんてとれたものではないだろう。

しかし往々にしてまじめな頑張りやさんというものは、そこだけに自分の価値を置いている。事実がどうであれ、「自分には大した才能もなく、無能力故に人から見下されても仕方ない。だから自分は人一倍にでも努力しなければ生きている価値がない」、こんな馬鹿げたことを心の底から信じている、信奉しているから壊れるまで頑張るのだ。

鬱は風邪のようなものだ、ともよく言われるが、私は全然そんなことはないと思っていて、例えるならむしろ生活習慣病のようなものだ、と思う。甘いものばかり食べて肉を食わなければ、病気になるのは当たり前のことだ。これを甘えだと思うだろうか?とんでもない、ただ単なる自傷行為だ。本当は肉が食べたいのに周りの圧力を気にして食べられなかったり、そもそも肉のうまさを知らず不味いと思いこまされていたり。本来あるべき選択肢を選べない(選ばないではない)時点で、それはもう健全な状態ではない。

もっとわかりやすく言えば、また違うパターンにはなるが、歓迎会などの飲み会でのアルハラによる急性アルコール中毒のようなものだ。いきなり外界から歪んだ常識の支配する場所に逃げ場なく捕まえられて、体に毒なものを大量に摂取させられ、体を壊す。壊れても、その人自身に価値なんて感じない、ただ言うことを聞く奴隷が欲しいだけの場所だから、気にも留められない。
このパターンは新卒のブラック企業での鬱や、宗教の洗脳に近いのではないかと思う。
それまでの、ひとりの人間として培ってきた、一貫した人間性ーーいいことも悪いこともあって、成長してきた自分ーーを切り離し、周りからの忠告が入らないように物理的に隔離し、自分たちに都合の良い認識を植え付ける。そうするうちに、自ら奴隷でなければ自分に価値がないと思い、身を粉にし始める。壊れたらまた違うものを探せばいい。そうして放逐されれば、鬱になって使い物にならない人間の出来上がりだ。

長い時間をかけて肝臓をダメにするか、急性アルコール中毒で倒れてしまうか、そういう違いだ、と思う。
だから誰にでもなる可能性はなきにしもあらずだが、ならない人はいる。しかしなるべくしてなる人もいる。
すべてのことには因果関係が存在するように、鬱もまたなるべく理由があってなるのだ。
だけど大酒のみに飲めない奴の気持ちを考えろ、共感しろと言っても難しいように、ストレス耐性のある人間にない人間の気持ちはおそらく一生わからない。時間の無駄だ。
けれどわかるわからないそれ以前の問題として、アレルギーのある人にアレルゲン物質を近づけてはいけないように、人間の健康は平等ではなく精神の健康もまた、平等なんかでは決してないのだと。その健康は親や周りの人間やあなた自身の努力の賜物であり、当たり前ではない、それくらいのことは誰にだってわかるのではないかと思うのだ。


話を戻そう。

つまり、原因があって鬱にはなる。原因がそもそも、それまで培ってきた一貫した自分という人間性、または恣意的に植え付けられた間違った奴隷意識だった場合、そいつを殺さなければ話は進まないと思うのだ。

無意識的な忘却の場合、自殺に近い。だが完全に忘れられることは難しく、むしろまた別の病気を引き起こすこともある。往々にして、生き延びるための延命措置にしかならない。
ならば、意識的に、連続したその自分という意識を、その手で殺さなければならないと思うのだ。

原因が他者から与えられた傷だった場合、和解・または復讐で癒されることも可能だが、法律的に裁きを加えるには期間や手続きがあったりするし、他人を平気で傷つけるような奴が自ら心から反省することはまずないと思っていい。ていうかない。

他人から与えられた傷を購おうと、自ら加害者に役回りに立って、他人や自分を傷つける場合もある。大抵のメンヘラ女やDV男、あんまり断定的に言いたくはないけど自己愛もここに含まれるのではないかなーと思うけど、迷惑千万極まりないし、ぶっちゃけ話をややこしくするだけでなんの意味もないので他の手段を探さねばならない。


自分を殺す、とは如何様にすればいいのだろうか。
まずはひとつ、「諦める」ことだと思う。

今まで大切だと思っていたものを、自分のすべてだと思っていたものを。
おそらく愛していたものを、憎らしく思い執着していたものを。あなた自身たるすべてを。
それを喪失することは恐ろしい。だってそのために耐えてきたのだ。それはすべてだ。それを手放してしまえば、今までの苦労や我慢や想いはすべて無駄になる。「わたしという人間」はなにも残らない。からっぽだ。
しかし敢えて言おう。無駄だったのだ。無駄だったから、今こうして地を這うような苦しみを味わっているのだ。
あなたの、願ってきたこと、想い、すべて無駄だったのだ。誰からも省みられることはない。だから、今、あなたはこうしてひとりで苦しんでいるのだ。
まず、そこを認めなければ、なにも始まらない。


そうして、「殺す」。
まず終わらせることを選ぶ。これは私にとって良くないものだと。
好きだったからこそ、終わらせなければならないのだと、理解する。
理解して、何を終わらせなければならないのかを見つける。日常の中のことだったり、それは住処そのものを移すことだったり。大事な思い入れのあるものを捨てることだったりもする。その特別は自分にしかわからない特別でいい。些細なことでもいい。自分にとって特別であることが大事なのだ。

一度では簡単に殺しきれない。
何度も何度も殺し直す。日常の中で、思いの中で。
少しずつ切り離していく。物理的に心理的に。
嫌なものを嫌と言えるようにしていく。

そうしているうちに、これは良いの、生活しやすいラインが見えてくる。
そのラインが見えたら、それをいかに上げるか、下げるか。
赦す、赦さない、それを何度も自分に問いかける。そうして以前の自分を殺して解放された自分でいる時間を増やしていく。

そうしているうちにだんだんと、過去にしていければいいと思う。
完全に消えるのではない、殺したのだからなかったことにはならない。殺した相手としてずっと残る。心に残る。でもすべてなくなったことにはならない。けれどそれだけ残るほどに大切だったからこそ、消せないからこそ、自分の手できちんと殺さなければならない。

まだそこまでできていないけど、死んだ自分たちへの弔いまでできたら、成仏することもできるのかなと思う。死を思うことは大事だけれど、引きずるのもまた苦しいことだから。