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終わりよければ全てよし

ちょっとだけ文章を書くのが好きなオタクのポエム張です。

ちょっとまけてよ

愛はお金で買えないと言うけれど、じゃあ具体的に愛を得るまでに何を費やせばいいのだろう。愛されるための努力も使った時間も費用も、そりゃあそれの持つ価値というのは「あなたのために」という献身だけれど、実質何を費やすかと言えばそれは物質的なものではないだろうか。

たとえば、親の愛。
親子の形はいろいろあれど、最終的にはその子どもが一人で社会でやっていけるようにしてあげることだと思うのだが、一人の人間をそれなりに真っ当に育て上げるまでに果たしてどれくらいの金額と労働、無償の奉仕が必要なのだろうか。
このご時世大卒、せめて専門卒なんて当たり前のようにはびこる話だ。塾に習い事に、子供自身のお小遣い、それらを賄うためにも世のご両親は働かれるわけだが、それだけでは真っ当に育つとは言い難く、やはり躾や愛情というものは欠かせない。時給換算はされない無償の奉仕、日々の労働、単純な経費を考えただけでも一人の人間のためにどれだけの代償が必要なのか。
これについては一重に愛だけでなく、家族として・社会の一員としての役割や子供を生むことへの責任も絡むとはいえ、やはり何らかの輪・集団に属することも愛の持つ性質の一つである以上、愛さえあればお金なんて・・・とは簡単には言い難い。愛はお金よりも尊いが、愛するためにはお金は必要ではないだろうか。



愛のためにお金を得るという代償を払うことで、お金があることで人は愛を証明できる。目に見えないものは伝わりにくい。いくら愛していても、伝わらなければそれはないのと同じ、かもしれない。
その愛を承認してもらうためには、お金という、真っ当でわかりやすいモノが必要なのだ。


けれど、ぼくのような人間は、いわゆる愛に飢えたケモノは、その確定された不確定さに苦しくなる。
がんばって、がんばって、愛するあなたのためにがんばってお金を稼いでも、そのために足を動かしても、それが報われるという保証はない。当然だ。愛とは報われるためにあるのではない。
しかし、ぼくはどうしても、承認がほしい。その愛の承認が欲しい。
彼女を愛している時だけ、ぼくは生きていてもいいような気がする。どうしようもなくてどうにもならないぼくは、彼女を愛している時だけそれでもいいのだと思える。
彼女を愛を捧げるために、ぼくは生きていきたいのだと。人生とはそんな、単純で明快な願いのためにあってもいいのだと。

ぼくは彼女を自分の人生のために利用しているのだろうか?
心の底から軽蔑し、恨んだあの男と同じことをしているのだろうか?
ぼくはまた、同じことを繰り返そうとしている?


けれど、どうしてもぼくは、ぼくがこの世に生きていてもいいという証がほしいのだ。必要なんだ。
ぼくは真っ当に、この世界に生きていてもいいのだという、人様に問いつめられても提示できる証明書が欲しい。
ぼくは、ぼくが生きていることを許せない。何故ならぼくを苦しめ追いつめるのは、他でもないこの私だからだ。この脳が、体が、どうにもならない精神がぼくを苦しめる。ぼくはぼくが一番嫌いだ。

本当は、良くないのだ。他人を自分を生きる理由になんて使っちゃいけない。
でもぼくは、どうしても、本当に、積極的に生きる理由が見つからない。この苦しみと痛みを、具体的に言うと頭痛とか誰かにみられてる恐怖とか脳裏から離れない嘲笑を我慢するのが耐えられない。
死んだように眠ることはできなかった。何度チャレンジしても死ぬことを選ぶことはできなかった。
けれど生きるとは、外に出て、自立し、働き、そして人を大事にすることだ。そしてできれば誰かを好きになれれば万々歳だ、自分を愛せたならばせめて大切にできたならばそれだけで人生の価値はあるだろう。

しかし、ぼくにはその気力が湧き上がらない。
我慢するという代償を払うだけの何かが、ただ無作為に生きるだけでは、これ以上の激痛の可能性を覚悟するだけには、ぼくには人生に見いだせる希望が何もないのだ。

だから愛したい。というか、ぼくを笑顔にしてくれて元気をくれる彼らのためにぼくは生きたい。
しかし聞こえの良いこの響きは、それでも積極的なそれではないのだ。この苦痛を耐えるための、緩和剤だ。優しい甘い痲酔だ。
愛する時だけ、殉じる時だけ、ぼくは愛できらきら輝いた世界をみることができる。

けれど、どうしようもない苦しさが襲ってきた時、ぼくは本当にどうしようもなくて、「生きていてもいいと承認されるためにお金を支払わなければならない」「ぼくのために報われない愛のために」、そんな風に思ってしまう。虚しさに飲み込まれる。
けれどきっと無条件に愛される人なんて極々一部で、きっと誰だって愛されるための対価を払っている。そしてそれは健全で正しいことだ。
それでもぼくにとって、その代価はひどく重たくて苦しい。だって、ぼくの払った代償が、それこそ心を切り売りするそれが報われたことなんてほんの僅かでも救われたことなんて、全然ない。

心の価値がいくらかだなんて知らないけれど、ぼくがぼく自身の尊厳を人として譲れない、とてもとても大切な大切なものを、それこそ、愛を捧げたところで、それらは全くの価値がないものとして扱われた。
それは彼らにとっても、全く大切ではないものだった。
こんな言い方は良くないことだけれど、それこそ、本当に、身売りするような屈辱と苦しさを我慢しても得られたのは途方もない虚しさと生きていることへの絶望感だけだ。
どんなに大切にしても願っても、最後には何も残らない。それどころか、自分の手で壊してしまいさえした。一番好きだった人に迷惑をかけてしまった。ぼくはずっとぼくが許せない。

これが甘えだとしても、これが馬鹿な子供の言い訳だとしても、
ぼくにはこれに耐えるだけの強さはなかったのだ。
ぼくは、これまでのぼくが間違っていたとしても、そうそれを認めよう、けれどそうしたらぼくにはもう何も残らない。ただぼくは無価値だという事実しかない。

周りのみんなは20年の月日を重ねているのに、ぼくだけ中学一年生のような気持ちだ。人が1年かけて得たものを、成長はぼくは10年しないと得られない。いつまで経っても追いつけない。
だからって、それを言い訳にはできない。何故ならぼく自身は、一般的な視点でみれば愛され、大切にされているからだ。全く以て五体満足な大人だからだ。ならば、世間の人から嘲笑されるのは、至仕方のないことなのだ。
けれどぼくはそれに耐えられない。人が恐ろしい。これ以上笑われるのは、嫌だ。
しかしここから放棄することもできない。どうにもならない。
どうしたらいいのかさっぱりわからない。

ぼくの20年間の価値は、生きるという積み重ねは、お金では買えない。
それこそが、本当に買えないものだ。
たとえ、今ぼくがいくらがんばったところで、ぼくの20年間は実りのあるものは返ってはこない(何故ならぼくが自ら間違えていたから)。
他のみんなが持っている価値に対して、ぼくは何も持たない。それどころか、長年培った「非常識さ」ばかりが自己主張する。当然だ、ぼくにはそれしかない。ぼくが積み上げたものは、他ならぬそれだ。
いくら努力したところで、調べてみたり真似してみたところで、「一般的な」「良識のある」「大人としての」ものは手に入らない。軽蔑の目を避けることはできない。それはもう、私にはどうしようもできない、私の罪業だ。


生きている許しは、どこから与えられればいいものなのだろう。
家族から?友達から?世間から?自分自身?
家族との間で尊厳を失い、友達を自らの手で遠ざけ、世間に認められるほどの良識も持ち合わせず、積み上げてきた自分自身なんてどこにもない。「私」はどこにも居ない。

愛は、ただ愛であるためにそこにあると私は思う。理屈ではなく、理由でもない。
ただ譲れない、大切なもの。大切にしたいもの。
大切にできる、大切である自分でいたいもの。そうした自分を造り上げる根源。
そうしてできるなら、あなたに愛される私でいたいと、願う祈り。

私は私でいたい。そうして別の誰かである「あなた」を大切にしたい。
でも私には、その「だれか」は居ないし、私に価値がないから愛する資格があるとは思えない。愛は迷惑をかけることだ。でもそれには限度がある。

私は、価値のある私を、「あなた」にあげたい。そうでなければ自分を許せない。そうでなければ、愛でない、気がする。

でも、一番最初に愛された記憶。あれは愛だったと思える思い出は、ただ私が大切だと一緒に居たいと当たり前にしてくれた優しい記憶。

ねえ、でもどうしてそうだったのか。どうしたらそれを得られるのか。
そもそも、今それを求めることは正しいのか。
それなら、どうしたら、どうやって生きていけばいいのか。私にはわからないんだ。

痛いのに耐えられない。
でもお金がなければ誰かに話を聞いてもらうことさえできない。なんでもなく、ただ誰かとお茶をするなんて、できっこない。
私が欲しい「安心」はお金と引き替えでなければ、代償を払い努力しなければ得られない。そうしても得られるとは限らない。
甘えた根性を叩き直すこともできない。怠惰に依存して生きる。社会不適合者。

私の人生の価値っていくらなんだろうか。お金を払えば買える?