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終わりよければ全てよし

ちょっとだけ文章を書くのが好きなオタクのポエム張です。

不幸自慢そのいち

クズニート

あまり、私はこういう人間だ、という肩書を名乗るのは得意ではない。何故なら、私は私が蛇笏のごとく嫌いで、己は死ぬべき人間だと言い聞かせて育ってきたからだ。被害妄想の恥ずかしい、社会の底辺だと思い続け、尚且つそれを誰にも打ち明けられず、払拭することも克服することも叶わず生きてきたからだ。
私にとって、私はこういう人間だ、と名乗ることはそれを盾にする、開き直りの極みに等しかったからだ。
けれど、あえて自分を分類するなら、わかりやすく述べるならば、私は元不登校児の現ニートの半ひきこもりで、おそらく、たぶん、アダルトチルドレンというやつである、と思う。流行りに乗っかっている気がして恥ずかしいが、あまり物を知らない人間なので許してほしい。

最初に言っておくが、これは私の不幸自慢である。
私の今までに何があって、何が原因で、私は何を間違えたのか、というのをまとめている。これを見て私を叩くのはまあ構わないが、不愉快になっても仕方はない。これはあくまで私の個人的な経歴だ。そして私の主観で語られる話だ。どうか、あなた自身の変な扉を開かぬよう、注意してほしい。




どこから、どこまでまとめれば良いのか、そもそもフェイクを入れたりとかどうすればよいのか、ちょっとわからない。
それに、私は周りの人に対して、これをうまく説明できた試しがない。いや、望んだ反応が返ってきた試しがない、と言うべきか。
私はとかく、これのことになると、いろんな記憶が甦り、心も頭もわーっとなってしまって、どうしようもなくなる。私の中でこれに対する感情は、割と明文化されているし(それでも長い時間を要した)、一貫してもいるのだけれど、相反していたり矛盾した感情がけれど根拠として存在していて、またその感情自体は制御できないほどの、いわゆる「怒り」というものであるために、話していても正直伝わっている気がしないのだ。これは私の感情であるため、理解や共感を得ようと思うことがそもそも間違いなのはわかっているのだが、それは「怒り」であるため普段表に出ることを禁じたためか、いざ放出しようと思うと堰き止められていた水流のようにどおっと放たれて、私の脳内を埋め尽くしてしまう。


と、いうか。そもそも私がそれを打ち明けた相手に求めていることは、「頑張っているね。えらいね」だったり「もう頑張らなくていいんだよ」だったり「気づいてあげられなくてごめん」だとか、なんとも都合の良いファンタジーであるため、報われた気がしないのだ。

また私の中の記憶は非常に浮かんだり消えたり曖昧で、そもそも自分自身でその記憶が自ら捏造したものなのか焼付いた末に抑圧したものなのか、自信がない。なので語り口調すら曖昧になってしまう。

そして父と母は、それについて正直なところを私に語ってはくれないので、何もかも私の推察になってしまうのだ。
そう思うと、これは、どこまで行っても私の独り相撲であり、私の頭がおかしいというだけの話なのだが。こんなものを聞かせてしまって申し訳なかったな、と思う。
けれど、なら私という人間の今までは、私と言う人間そのものは何だったのだろう、と思わざるを得ない。



それでも、なんとか、この想いと記憶もまた消えてしまう前に、書き残しておこうと思う。「私」にとってこんなに大事なことであるのに、日々を生きるためにそれは消えてしまうのだ。
そして同じようなトラブルが起こった際に、それは待ってましたとばかりにふっと浮かび上がり、私を支配する。そして何もできなくなり、ただ壁に頭をぶつけ思い切り殴り、上げることのできない叫びを内に封じ込める。

もういやだ。
だから、こうして整理して、何が悪かったのか・どうすればよいのかを明確にしておきたい。


まずひとつ、家庭環境を悪くする原因に、貧困というものがあると思うが、正直なところ私の家庭はそれとは無縁に近い。少なくとも、私の代は。父は世間から「先生」と言われるところの職業であり、また両家共に近親者にその肩書を持つ人は多い家だ。母も昔は女性の就ける中では安定した職業に就いており、また大層金のかかる趣味に生涯を投じている。これは比喩ではなく、そのための学校にまで、就職した後に通って卒業し・その後の人生の中でもそれをやめていたのは私が生まれて間もない頃と私が自身の治療のためにそれをやめることを懇願した時くらいだったからだ。
私自身、お小遣いはずっと申請制だった。何々に使うから、いくら欲しい、と言えば貰えたのである。それは私にとっては、「却下されればそれまで」か「どうして欲しいのか説明してディベートする」、というものであったが、結局出し渋られたことはほとんどなく、また貰う額も一度に大きいことが多かったから、無制限であったに等しい。そして友達がおらず、小学校からは幻聴に悩まされ不登校であった私はネットサーフィン、そしてゲーム・漫画・二次創作にのめり込み、欲しいゲームや漫画を買うことだけが生きる楽しみだった。逆に服飾等には興味が湧くきっかけがなかったため、むしろ今現在になって年相応の身だしなみがわからず困ったりしているのだが、当時ジャンプ漫画にのめり込み毎月の新刊5、6冊を買っていたことと、最新ハードはほとんどすぐ買っていてもらったことから、苦労していたなど口が裂けても言えない。

私の家庭にあった問題―――、食事があり娯楽品もあり充分に生かされていた(いる)状態を問題と言うのならばだが――は、「互いの意思疎通を図るつもりがそもそもない」ということだった。
家族という共同体として、「相手がどう思っていて、どうしたいのか」「自分はどう思っていて、どうしたいのか」「それらを確認し合い、共感ないし妥協し合う」、この理念は我が家の中には存在していなかった。正直今でも都市伝説なのではないかと疑っている節はあるのだが、実際どうなのだろう。
まあ、世間一般がどうかは別として、我が家の場合はそれが明確な障害・問題・衝突として存在していた。

実質、いつものこと、だったし、数を上げればキリがない上、記憶からも消していたりはするのだが――それだけ日常的に苦しくて辛かったとも言えるのだが――、とりあえず毎週のこととしては、
まず母が日曜の出かけ先でほとんど日本語になっていないむちゃくちゃな、こちらの体力や予定などを考えない、利己的な要求を父と私に打ち出す。この時点で母の言っている言葉の内容を、父と私が理解するという一工程が必要になる。母は日本語が苦手な人なのだ(日本人です)。ぶっちゃけこの理解できない時点で父の不機嫌さは八割越えである。
その母の要求を理解できたところで、それは父や私を都合のよい道具のように扱った、利己的なものである。大抵自分勝手であった。しかし母は暴君のような女王様であったわけではない。むしろ、世間知らずなお嬢さん、お姫様のようだった。そして行動理念は大体のところが「自分が嫌な目に合いたくない(だから人に嫌なものを押し付ける)」「自分の母親(私の祖母)のため」だった。

ああ、むしろ具体的に我が家の問題を言うとするのならば、私・父・母三人の家族共同体より、それぞれの家をそれぞれがひたすら尊重し続けた、というこのなのかもしれない。
三人はそれぞれ独立していたに近いし、母は母の実家・父は父の実家を大切にしていた(そこには仕方のない部分もあったのだが)結果、私という人間はどこにも帰属することが叶わなかった、ということなのかもしれない。
今だって母は自分の趣味と自身の母親のために、二週に一遍のペースで地元に帰っている。ちなみに私の母の趣味は、祖母・祖父ともに愛好していたものである。また私の住む家は私の病状のために地元から離れた地に家族まとめて移っており、地元には寝泊まりできる家は祖母の住居以外存在していない。

話を戻そう。
そうした母のお願いに、私は娘としてかなり従順に従っていた。「こうして方がよいのではないか?」あるいは「こうしてほしい」「何故私がこれをしなければならないのか」「私は嫌だ」ということも知恵がつけば言うようになっていったが、母が自身の要求を多少なりとも変更することはほぼなかったと言っていい。そして私もそれをある程度は諦めて受け入れた。
また母はあまり問い詰めすぎるとキャパオーバーして癇癪を起す。街中で大声を出しての口論になったことも多々…しょっちゅうだったし、家の中なら物を割る・酷い時は牛乳を(自分の)頭から被る。最近も「私が自立に向けて動こうと思っている」と言ったら(私の動き方が急すぎたように見えたのだろうが)、「私(母)は来月の頭に母(私の祖母)を東京まで連れて行かなければならず、そのプレッシャーが酷いのでこれ以上私に負荷をかけることをしないでほしい」と言われた。すごくもやもやするのだが、私が悪いのだろうか。

それは、母に従うのは父も同様だった。が、父は生来(?)自分の感情を、特に自分が今不愉快であるという感情を隠せない人だ。不機嫌じゃなくても不機嫌に見えるくらいの顔立ちではあるのだが、こう、オーラや雰囲気に目に見えて、「俺は今機嫌が悪い」というのが書いてあるのだ。父には何度言っても理解されなかったので、自覚はないのだろう。
そして私が思うに父の一番の悪癖は、「顔や雰囲気に否(嫌)と思っていると主張しておいて、言葉では一切全く何も言わない」という所だ。そして「あなたの好きにしたらいいですよ」が決め台詞である。
母がその不機嫌さを恐れて撤回しようとしても、逆に今度は父がそれを受け付けない。「こうしてほしいんでしょ?」と言い、例え状況が変化したとしても対応することはなく「言われた通りに」動く。スピード違反で警察に捕まったとしてもだ。父はそれを未だに恨み節に言うことがある(俺に言うな)。

このパターンを例にして言ってみれば、まず母の言うことは理不尽ではあるが、残念ながらあの人は何も考えていないだけだ。だからこそ性質が悪いということはここではまず置いておいて、ならば「自分は嫌だ」と伝えれば直面している案件自体はそこで解決するのだ。
母は日本語が苦手で考えなしではあるが、同時に育ちの良いお嬢さんである。中身は15の少女のような、見た目も幼い可愛らしい人である。そして母は父を、父の不機嫌の面立ちを非常に恐れている。というか、父自体を恐れている。それなのに、何故ああも毎回学習しなかったのか理解が及ばないが。
また母にもそれがいくら理不尽な要求だとしても、「自分がこうしてほしい」ということを主張する権利はあるのだ。
ならば、母の要求に対しては、父はちゃんと自分の意見を述べるべきだったのではないだろうか。そうしてお互いの妥協点を探るべきだ。
父のやり方は母や私を委縮させ、父自身もストレスを溜め込み、また幼い子供であった私も母も次にどうすればよいのかという経験値を積むことができない。完全に負のスパイラルである。それだけ恐怖と不信感・失敗体験を積み重ねていけば悪い方にしか進まないのはわかりきっている(父はわかってはいなかったのだと思う)のに、むしろそれを助長させていく方にばかり動いていた。


そして父のそれは、おそらく、おそらく、私にとってはこれは大変おぞましいことに、その父の、愛情表現は、私に対しても全く同じだった。
私は父に叱られたことは、ほとんど全く、ない。記憶にない。記憶にあるのははぐれてから見つかった際にディズニーストアの入口で体が浮く勢いで頬を殴られたことと、不登校だった時分にずっと家でパソコンをしていたら「お前は何がしたいんだ」と深夜一時くらいに一対一で正面に座られてずっと座らされていたことくらいだ。当然私は恐怖で口が利けなかったのだが、我慢ができず「(今)寝たいです」と言ったらため息を吐かれた。なんなんだ。私は不登校が始まった小三の頃に「幻聴と妄想で外に出ること自体が辛いから家の中に居るしかない」のだと涙ながらに訴えたのだが、後々聞いたら覚えていなかったらしい。へっ。

幼稚園の頃も、不登校であった小学生の時分も、私は父にちゃんと叱られたかった。叱られたくて、わざと良くない行いをしてみせた。だが父はそのどれもを見咎めることなく、スルーした。この叱られたい、という想いは幼稚園の時にあった、私がほとんど今でもトラウマとして思い出せば刺殺願望が浮かぶほどのそれが起因しており、つまりは真っ当な父と子としての距離・関係を築きたかったのだがそれは全く以てうまくいかず、そのトラウマに関する恐怖心と混乱を深めるばかりだった。何をしていてもしていなくても思い浮かぶそれを、その当人である父の前では押し殺し、むしろ恐怖心から体をくっつけて甘え、それでも一般的な健全な関係だと思い込もうとしていた私の努力は、とどのつまり、父にしてみれば「どうして?」としか言いようがなく、全くの無意味であった。ああああああああきもちわるいしのう。女性的であること、母親に近づくことが嫌で服装とかも気にせず、見た目は荒れ果て(+肌荒れ)、もうあれだったことも笑い話だよね。ふふっ。うふふ

だのに、私がほんの少し調子に乗って、私が本当にしたいことを、いわゆる小さな子供のワガママを言ってみれば、父はそれをそのまま受け取り怒りを見せた。自分で言うのもなんだが、スーパーで子供がお菓子を買ってほしいと強請って母親が叱るような、その程度のことだ。
私が恐ろしくて恐ろしくて、消えてなくなってしまいたいと神様に願うほどに怖くて、「いいから」と懇願しても父は聞き届けなかった。鬼のような顔をした(今父が不機嫌な顔する時も若干そう思う)父が、私の些細なワガママを叶えていく。周りの親子連れの目も気にせず。それは私にとって拷問に近かった。あんなこと言わなければ良かった、お前が悪いのだ、父はお前の願いを叶えてくれたに過ぎないのだから、お前があんなことを父に言うからこうして父を嫌な思いにさせている、お前が悪い、しね、そう言い聞かせた。自然と、そう思えた。恥ずかしくて消えてしまいたかった。


そうして私は父と二人の時も、母と三人の時もそうだけれど、何かトラブルが起こるたびに「私がああしていれば良かったのだ、どうすればよかったのだろう、でも何もできなかった、私はなんて無力なんだ」と自分を責めるようになった。トラブルが起こる時というのは、つまりほとんど毎週と言っていい。
早い段階で現実世界がほとほと嫌になったためフィクションの世界ののめり込み、また人前では良い子でいるよう努めるようになった。父や母の前でも、気の利いたジョークでも飛ばすようになった。幼稚園の父とのことがあった日からずっと自分の中の処理しきれない感情を「私が間違っているのだ」と封じ込め続け、母の前では良き姉や母や娘であろうとし、他所さまの前では良い子を演じ、父の顔色や母の爆弾に怯え続けた。

それでも、そのままでは自分が生き辛いことも第一ではあったが、私はこの家族という共同体の機能を取り戻そうと(おそらくは最初から備わっていなかった)努力し続けた。
知恵がつくほどに、周りの家庭とのギャップに絶望しつつ、「私はこういう理由でこう思っている」ということを父や母に述べ続けた。怒りを封じ込め、なるべく理路整然と順序立てて話そうと努力した。母の癇癪や父の不機嫌さは私にとっては暴力に等しく、それをやらないことが私にとっての絶対で唯一の正しさだった。「話し合いで解決しましょう」というやつだ。周りの親族にも相談したが、「家の中に問題がある」「それで(精神的に)死にそうだ」ということは理解してもらえなかった。
その行動の動機となった感情の発露は、もしかしたらストックホルム症候群的な何かかもしれないが、やはり父や母のためだった。本当に、本当に死にたいと思った時もあった。いや、割とずっと死にたかったけれど、本当に死のうと思ったのは、母に「あんたが不登校のせいでご近所さんからどう思われているか恥ずかしい」と言われた時だ。だが、ここで私が死んだら本当に父と母はダメになると思い、また祖父の葬式で生前のたくさんの人から慕われていた姿を想い、ここで死んだら、それこそ「親不孝」だと思い死ねなかった。死なないことにした。それが正しかったのかは今でもちょっとわからない。


この過程の中で、私が私の中にある感情を――伝えたいことを言語化した時、一番思ったのが、「私は人間の娘ではなく、お人形のように可愛がられている」という嫌悪感だった。
そこに私の自我や、それによる意志や感情は存在していない。何故なら、こんなにも躍起になって、こんなにも苦しんで伝えているそれを両親は、父は無視し続け、それどころか何も、なにもなかったかのようにいちゃいちゃとにこにこと私と過ごし続けたからである。
そりゃあ、父も母も私に暴力を振るったことはない。言葉でなじったこともない。やったことといえば、互いの要求に従い続けたのみだ。
けれどそこにある私の感情を、何故そうしてほしかったのか、や、気持ちが変わってこうしてほしい、や。そんな、被害者ぶった顔して、責められているような風にしてやるくらいなら、私が世界一の悪人になるくらいなら(子供にとって親の不興を買うというのは、世界一の悪人と同じである)、そんなことはしてほしくはないのだという、人としてのプライドを完全に亡き者としていた。私という人間の自尊心は、ことごとく破壊されていた。

彼は、彼らは私という子供を、一人の人間として自立させることも教育することもしなかった。やり方がわからなかった、それはそうかもしれない。お世辞にも、私が見た限り父も母も生育環境が良いとは思えない。
しかし子供も持つことも、婚姻関係を結ぶことも彼らが自ら望んでしたことである。そんな荷物に感じて苦しむくらいなら、最初から持つべきだったのだろうか。途中で契約解除する方法もあったのではないだろうか?
そして、私は、何度も何度も、子供ではあったが子供なりに、なんとか論理的な言葉と冷静さと一途な想いを以て、彼らに「こうしてほしい」のだと訴え続けていたのだ。それを無視していたのは、何故なのか?未だ望む答えは得られていない。おそらくこれから一生得られることはないだろう。

これは、私(子供)対父母(両親)の問題だけでなく、父(夫)対母(妻)の問題でもある。
そしてそれは、私にとって長いこと知りたかった疑問であり、私という人間の存在理由に関わることだった。一度父に母とのなれそめ話を聞いたことがあった。
お見合いで出会った父と母は、なんでも初デートで母が癇癪を起し帰ってしまったそうだ。父の落ち度のないことで。話の文脈としては「何故母と結婚しようと思ったのか?」だったので「はあ?」となった(そもそも質問の答えになっていない上に母が意味不明すぎて気持ち悪いし、何故娘にそんな話をしたのか父の意図が理解できなかった)。
それでも根気強く聞いていった結果、おそらくこれがFAなのだろうが、「母親(私の父方の祖母)のため」だったそうだ。「祖母に尽くしてくれそうな人」だそうだ。どっかで聞いたことのあるフレーズである。つまりは、そういうことだ。


今でも、今でも。対話しても、うまくいかないし。父も母も次の日には忘れている。
最早対話する気はないけれど。私は失敗体験から逃れられず、そして今ニートである。一番の問題はそこである。自分でお金を稼ぎたい。そうすれば、私はひとつ呪縛から逃れられる気がするのだ。

父に関しては、いつか思ったのは「不倫してでもいいから好きな人を作ってほしい、人を愛するということが大切にするということがどういうことなのか知ってほしい」ということだった。母を愛しているとはとても思えなかったし、私のこともあれが愛だなんて思えなかったから。大切にされているなら、何故こんなに辛くて学校にすら通えない精神状態の私をずっと放置しておくのか、理解できなかったから。


ちなみに、私がお薬に助けてもらうようになってから、父に問いただしたら逆切れされつつ聞いたひとつの答えが、「母親に従うのは私のため」だったそうだ。
父は毎回母の実家に行くと機嫌が悪くなるから、「やめてほしい」と何度も伝えていた。その度に父は曖昧に笑って何も言わなかった。私は、私は本当に父が怖かったから、本当に「やめてほしかった」のに。「私のため」だそうだ。「私のため」