終わりよければ全てよし

ちょっとだけ文章を書くのが好きなオタクのポエム張です。

私は三つ葉の白詰草

だからね、人間は幸せになるために生きなきゃいけないのか、っていう話ですよ。

傷ついた分だけ人に優しくできるとか、痛みを知っているからこそ強くなれるとか、そんな弱者に夢を見すぎな感動ポルノには正直辟易していて、でもだからって強者がいじわるだとかそこまで現実から目を逸らしてもいない。

どちらかというと、弱者のことも強者のことも特別視するいわゆるふつう、の観点の方が正直反吐が出る。反吐が出る、っていうのはもうこれは単純に弱者としての「ふつう」への恨み辛み妬みだから、これをどうこうしてほしいってわけじゃなくてただただ憎たらしいだけなんだけどさ。

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あなたが私に望むもの

結局のところ、母が私に望んでいたことはなんだったのだろう。

簡単に突き詰めてしまえば、そもそもが私という存在に何も望むことなんてなかった・いないのと同じだったのだろうか。それにしてはどこへ行くにも連れ回した末に放置し、自分の母親に迫害されるシーンや夫(私の父)に軽蔑されるシーンを見せつけるという行動には謎が多すぎる。いや本当に謎だ。

みんな親になれば気持ちがわかるものよ、というものだが、本当にわかる気がしない。脳が理解を拒否するに近い。それをわかってしまうような大人になるくらいなら、そんな人間は社会のために死んだ方が良いのではないかと本気で思う。よくないことだとわかっていても、はぁ?と声が出そうになる。意味がわからないのだ。
わかるなら、誰か細やかに説明して欲しい。私だって、わかりたくないわけではない。説明してもらえるならそれが一番良い。実の母親を宇宙人のように理解できないことは怖い。だって私はあの人から生まれたあの人の娘だから。

家の中に理解不能な宇宙人がいることがどれだけ恐ろしいか(なにせ、いつ何が起きるか予測がつかない)、それが自分の母親であることがいかに恐ろしいか(母親だからこそ、私が本当に傷つくことを選び取って遂行できるのだ)、なかなか他人に理解してもらえた試しはない。私が長年なによりもに感じていた感情は、ありとあらゆるものの根元は「何が起こっているのか理解できない」という恐怖だ。

それでも距離をおけば他人に近づく。他人のことならまだ怖がらなくても済む。でもそれでも蓋をしただけの感情はふとした瞬間に沸騰して爆発する。

実家から連れ出した犬の世話をして思うのは、やはり私は何かを育てるには不適合な人間だということだ。自分のことで精一杯な上に、ほしいと望んだわけでもない他者に気を掛ける心の余裕がない。
母も案外こんなものだったのかもしれない。案外というよりは妥当に。
つまるところ、母にとって私は限りなくじゃまな他人だった、というだけで。

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破壊的創造の翼

結局のところ、そう最後には、人は死ぬことでしか生まれ変われないのだ。

誰かから与えられた傷は、その与えた当人にしか癒すことはできない。というのがわたしの持論である。傷つけられ、自ら損ねたプライドは自身の努力で取り戻すことはできる。しかし与えられた傷そのものは、自分だけでは治すことはできない。だから人は、その痛みを思い出さなくて済むよう、同じようなことが起こった時に傷つかなくて済むよう、努力し続けるのだと。

けれど人間には忘却という機能が備わっている。忘れる、ということはその時の自我が死ぬということだ。連続性の喪失は、一貫した自分という意識がそこで途絶えるということだ。世界五分前創造説とはいえ、それでもそこに生きる人間の意識の中には生まれてから今日までの記憶と思われる情報があるからそれは成り立つわけであって、世界ではなく一個人視点で見れば世界が五分前から始まっていようが、コンピューターシミュレーションの世界の情報でしかないにせよ、なんの関係もないことだ。わたしの世界はわたしを中心に回っている、それでだいじょうぶ、オールグリーンおーるおっけー、なんの問題もない。

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